母の永眠と遺影写真

2011年1月25日夕刻、母が他界した。享年76才だった。

当日の午前中、病院で話しかけたが、母は微かにうなずくだけで、声を発することはなかった。父はほとんど入れ違いで病院に到着し、16時30分頃に病院を出たそう。

18時頃に病院から血圧がなくなったとの連絡があり、直ぐに駆けつけたが、病室には再度駆けつけた父がいて、母は既に息をひきとり、冷たくなっていた。

その後、医師、看護師が病室に入ってきて、医師は時計を見て、死亡確認19時10分と告げた。実際には17:30頃に血圧はゼロになっていたが、死亡時刻というのは家族の前で行うというのを始めて知った。麻薬の痛み止めをしていたせいか、苦しむことなく亡くなった様で、穏やかな顔をしていた。癌を告知されてから55日目だった。

2010年12月1日の母の誕生日に電話を掛けたところ、電話の向こうで母は痛い、痛いと弱々しい声で話していた。いつもの様子と異なり、心配だったが、母は腎臓結石なので、石を取れば治ると言っていた。私もネットで腎臓結石、尿結石を調べると、生死に関わらない病気と知り、少し安心をしていた。翌日の12月2日は病院で以前に通した管を取る予定で、母はこれで治ると楽しみに病院に行ったそうだが、母の異常な痛みや様子に驚いた医師は自分の手に負えないと言い、手術をせずに、別の大きな病院に連絡し、救急車で運ばれていった。

すると、その病院に付き添いした兄嫁から、癌の疑いがある事を聞き、翌日の早朝に病院に駆けつけた。すると、母親と少し話した後に、医師に別室に呼ばれ、状況を聞いた。腎臓の癌の疑いが強く、年単位で生きれない、半年以上、1年未満位と言われた。その後、数日間、薬で血液値を正常に近づけ体力を少し戻し、細胞検査を行った結果、腎細胞癌ではなく、腎盂癌であることが判明。いきなり、第4期で、治ることは無いと断言された。お月見の時期を迎えることは難しい、七夕の時期、いや、もっと早ければお花見の時期かもしれないと言われた。

父は心臓病で以前に2度、インターンに手術を失敗されてから、急に体が弱くなった。今回の母の場合も最初にかかった医師が誤診をしていたので、うちの家族は医師を信じきれないところがある。そこで、セカンドオピニオンを取ることにしたが、予約にも2週間以上もかかり、中には2ヶ月以上待たす病院もあった。結局、3病院と2クリニックからセカンドオピニオンを聞くことができたが、どこも病名は一緒で手遅れであることが分かった。ただ、いかにして、余命を長くするかだけだった。

母の入院中、何度か主治医と膝を突き合わせ、CT画像を見ながら、ミーティングをする機会があった。しかし、あまりにも病気の進行が早く、毎回、余命に関して下方修正を言い渡された。手術は手遅れで、抗癌剤にしても放射線治療を行っても完治することはなく、延命や緩和の為のみ。そして、抗癌剤の効果は疑問で、副作用や人によっては死期を早めることもあるそう。ちょうど、その頃、文芸春秋の「抗癌剤は効かない」という記事が話題にもなっていた。結局、積極的治療としては、病院では痛み止めを目的として、脊髄に対してのスポット的な放射線治療のみを行った。医師からは、「ここは急性期病院なので、いつまでも入院できない、退院して自分達で介護するか、ホスピスを探す様に」と何度も言われた。私は緩和ケアをして頂ける病院を探し続けた。

私は直接に医療行為が出来ないので、病気に対しての勉強、環境を整えること、介護保険等の制度利用の手続き、医師探し、西洋医学以外の処置等のあらゆる可能性に対しての周辺業務しか行えなかった。しかし、結果として私が行ってきた全ての事は、母の病状の急速な進行によって、前提が崩れ、全てが後手後手となり、なんら花開かなかった。

私が今回、学んだ事、知ったことを羅列してみる。

1)癌の3大療法とは「手術」「放射線治療」「化学療法(抗癌剤投与)」であり、一般的医師はそれ以外に可能性を考えることがなく、ノウハウもない。

2)免疫療法等の先進医療は臨床結果が良く無く、一般的ではないこと。その不確実な可能性に対して一般的に1000万円等の高額な費用を支払うべきか。(多くのクリニックで訴訟問題も抱えていると聞く。)また、民間の癌保険等で先進医療保険に入っていたとしても、その保険を使用できるのは、厚生労働省が認可した一部の病院のみ。(実際に足を運んだり、電話問い合わせをしたりしたところ、該当病院であっても、積極的推進をしていないとか、撤退していることもあった。)

3)上記1の積極的治療を行わない限り普通の病院(急性期病院)では入院することはできない。病院も経営があり、医療サービスを提供する企業。治療を行ってポイントが付かなければならず、医師にまで経営効率や原価意識があるのは当然。自宅介護ができない場合、ターミナルケアを行う緩和病院やホスピスを家族が探すしかない。しかし実情として、ホスピスは外来予約をするのにも3週間〜2ヶ月も待たされ、さらにベッドが空くのは1ヶ月〜3ヶ月かかるのが通常。すると、末期癌の場合、亡くなってしまってから、ベッドが空くことも多い。ただ、ホスピスを探している人は併願するので、且つ、亡くなる場合も多いので、キャンセル者も多く、外来予約やベッドの空きが早期化することも多い。今回も病状悪化により、転院できるステージが過ぎてから、2つの病院からベッドが空いたとの連絡があった。

4)抗癌剤は肺やリンパに癌細胞が転移すると効果がでる確率が急に低下する。もし、抗癌剤治療を行うなら、出来る限り早めの段階で、副作用が出るなら直ぐに止める覚悟も必要。効果や副作用は全てが個人差だそう。

5)入院中は患者は閉塞感、孤独感があり、日当り、風通し、眺めがいい部屋、ポジションがいい。よって、転院する為に病院を探す際に家族は事前に病室見学をしておくといい。

6)母の場合、入院中も比較的、激やせ状態にはならなかったが、最後の2日間で急に表情が無くなり、痩せた。笑顔も完全に消えた。表情と言えば、眉間に皺を寄せる程度だった。そして暑い暑いと言い、体温は平熱でもかなり暑がっていた。最後の日は37度5分迄上がり、手に汗をかいていた。癌細胞が猛威をふるっていたのだろう。

7)癌細胞は体内で増殖していく。しかし、増殖しすぎると、人は死に、それ以上は自分達も勢力を増すことも出来ず、最後は癌細胞もろとも焼かれる。なのに、なぜ、死に追いやるまで増殖し続けるのだろう。

8)癌は日本人の1/2 がかかり、死亡原因の1/3 。改めてその多さに驚く。にもかかわらず、徹底的な医療の発展は見えてこない。例えば、早期発見に犬等の動物を使用できないか。癌細胞を好物とする虫を発見し、又は作り、体内で癌細胞を食いつぶさせる様なバイオ治療方法は無いのだろうか。

結果的には残念な事になったが、そんな中でも良い事が幾つかあった。

1)母とはここ数年間は年に3〜4回程度しか会っていなかったが、2ヶ月弱の期間で10年分位会うことができた。ゆっくり話したり、看病、介護する機会もあり、兄弟含め、バラバラに住んでいる家族との絆も深くなった。

2)私が知らなかった母の多くの面を知る事ができた。父や見舞いに来た人から母について色んな事を伺うことができた。ビジネスの才能やノウハウがあり、トップセールスでの表彰経験も多く、ハワイやシンガポールにも表彰式に行っていたとのこと。また、住み慣れた大阪から東京に出て来た際も積極的に地域社会に溶け込もうとし、バドミントンチームのキャプテンをしていて、マネジャー的な役割もしていたとのこと。入院直前まで練習に参加したり、羽のメンテナンスを自宅で行っていたとのこと。そんな母親を誇りに思える様になった。

3)入院中、そして亡くなる当日の午前中迄、母親に対する感謝の気持ちを声に出して伝えることができた。

今回の母の入院、闘病生活に色々と考えることができた。今回の見舞い、看病、介護は家族生活のイベントの一つであるということ。子供の頃に家族で毎年、夏休みに家族旅行をしたこと、社会に出てからは会わない時期があり、そして、今回の件。人生や家族のステージが異なるだけで、その全てが家族のイベントであり、楽しい出来事のみとは限らず、悲しい事、現実的な事も全てパックにしたものが「家族のイベント」だと今更ながら認識した。

3年前の両親の金婚式に私のスタジオで撮影したものを今回、母の遺影にした。家族写真、両親二人の写真のみならず、いつかこんな日が来るかと思いピンでも撮っておいた。そして、プリント、雰囲気に併せて額装まで行った。通常、多くの女性は皺を嫌い、レタッチ依頼があるが、私は皺はその人の生き様であり、勲章だと想い、今回は全くの無修正で、ありのままの母をプリントした。

母の微笑んでいる姿、遺影は通夜、告別式、火葬場へと行き、そして今は父と住んだ家に再び戻ってきた。

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有り難う。母親。

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